連続講座『「盛り」の誕生 ー女の子のビジュアルとテクノロジーの平成史ー』第1回~(4)ギャルの美意識と「粋」


■「盛り」の美意識は、生き方につながる

古田 私の時代は、全身を撮る文化でしたので、いかに全身を入れた1枚の写真でどうするかということを考えていました。帽子やヒールもその一つなのですが、100m先から見た時に遠目でも盛れていることをすごく心掛けています。

久保 全身って自分でもなかなかわかりにくいですよね。一番見たことがないものというか。しかし、奈々恵さんは写真で撮った自分をよく見ていらっしゃるから、それがわかるようになっているのだと思います。

古田 人の印象はやはり見た目で決まると思います。特に遠くから見た時にだいたい決まると思うのです。就職活動でも扉を開けて入った瞬間に、どういう人かわかることがありますし。

久保 なるほど。これはパンフレットの時に話されていたことと近い気がします。我々は、鏡で見ることのできる、近距離からの、決め顔の自分しか見ていないけど、実は他人との関係を司っているのは、遠くから見たときの姿や、写真の上の姿だということですね。

古田 はい。一方で、後ろ姿とかは努力を怠ってしまう部分でもあります。なので、前面だけでなく、常に360度を見られている意識を持って「盛る」ことが『Angeleek』時代からの永遠のテーマなのです。

久保 なるほど。そろそろ時間なので、まとめに入りたいと思います。今回テーマにした「盛り」の美意識とは、答えが一つに定まるものではないと思います。でも、今日わかったのは、ひとりよがりに個性を表すのではなく、仲間との「協調」関係の中での表現だということ。また、「リアルの顔とバーチャルの顔が違ってよいの?」というような声がよくありますが、そういう既成概念への「反抗」もあるのではないかと思いました。そして、そのような先進的な考え方だったり、また、お二人は今なお新しい技術をどんどん取り入れていらして、「好奇心」も重要なのだと感じました。このような「協調」「反抗」「好奇心」が、「盛り」の美意識の要素としてあるのではないかと、私は考えます。

また、私はもともと「粋」という美意識に興味があるのですが、『「いき」の構造』(九鬼周造)という本で、「粋とはなにか」といった時に、「媚び」「諦め」「意地」という三要素が挙げられています。ここに「盛り」にも近いものを感じています。強い信念(=「意地」)を持って貫いていらっしゃるし、人によく見られること(=「媚び」)を大事にしていらっしゃいます。そして、失礼かもしれませんが、「実物は違うかもしれないけど、バーチャルが大事だよね」とか「ここはあまり見られたくないから、こちらに視線を向けるようにする」などは、どこかさっぱりした「諦め」があるようにも思います。

荒井 そうですね。今回はビジュアル的な側面を中心にお話させていただいてきましたけれども、先ほどのギャル系文化の価値観にも、『「いき」の構造』でいうところの三要素は通じるところがあると思います。純粋に当てはめるならば、「チャラい」という価値観の、異性とのありようや、距離を保つ禁欲性、捉え方や扱い方には、「媚態」を中心に、「意気地」、「諦め」の三要素が余すことなく含まれているでしょう。また、細かく見れば、他の要素も結びつきますが、「オラオラ」であろうと見栄を張り、「強め」であろうと痩せ我慢するところなどは「意気地」の要素を捉えやすいです。そして、九鬼先生の概念を拡げるならば、「引退」をよしとする美意識には、「諦め」がとても結びついていると思うのです。

また、「盛り」って、「粋」であろうする性向とも通じるところがあるのではないでしょうか。ギャル系文化でいうとするならば、イケテル自分であろうと願い、行動する性向、美意識が、「盛り」には象徴的に表れているように思えるのです。そして、その美意識は、ギャル系文化の核になるところや、生き方そのものと結びついていると思います。
近年の社会学で「現実」と述べる場合、多くの場合、それは物理的な「事実」と「人の認識」この両方が合わさったものを指しています。そして、僕の中での「盛る」という行為は、その「事実」を「人の認識」上でより良く、大きく見せよう、より価値づけようとするものだと捉えています。

初期のギャル系文化も含まれる不良文化においては、その「事実」と「人の認識」の両方が強く意識されますし、その両方の重なり合いの結果生み出される「現実」によって威信が決まってきます。だからこそ、僕たちが若者の時は、ファッション以外にも、話、武勇伝や経歴などを盛ったりして、少しでも自分をより良く大きく、そして格好良く、美しく見せようとしていました。
恐らく、文字媒体のSNSに書かれた武勇伝なんかも一種の盛りに含まれると思うのです、ただし、僕たちの時代は、久保さんがしてくださった分類でいうところのビジュアル型SNSが隆盛するMORI3.0以前の時代です。そのため、先ほど奈々恵さんが2ちゃんねるの話を出してくれましたが、盛った認識上の自己像の提示と同時に、事実としての実力の証明も、今以上に必要となってくる時代でした。写真での自己像、口コミやSNSを通じて武勇伝を提示したとしても、現実に実力がともなわないと、偽物になってしまい威信は得られません。だからこそ、事実をその盛った自己像に近づけるように、やせ我慢して陰ながら努力しつつ、証明をしていかなければならなかったのです。

そのように様々な形で自分を盛ってきたのですが、この「盛る」っていうのが自分に向けられる場合は、「より○○でありたい」という意思に結びつくと思います。つまり、より美しく格好良くありたい、輝きたい、上昇したいという意思に結びつくということです。そして、僕らの美意識の中では、盛った認識上の像に見合う事実、実力を証明することが必要になります。そのため、この意思にもとづき、盛った認識上の像に向けて、時にやせ我慢しながら事実を追いつかせていこうと行動する。このような一連の流れは、日々の日常や、生き方の方向づけ自体にも結びついています。

実際に、盛った像に向けて自分を高め、理想に近づこうと努力し、それに結びついた生き方をしているサークルの仲間は、社会でも出世しています。もちろん、僕たちの仲間の生き方には手放しに肯定出来ないこともあるのですが、それでもどこかで僕は、「より○○でありたい」と願い、行動し続ける同世代の仲間たちと、その精神に魅かれ続けています。

古田 今の荒井さんの話にもありますが、当時からサークルや「盛り」を念頭に行動していると、社会人になっても一番を目指すようになるのですね。何故かというと、当時のクラブでもお立ち台に上がれるサークルは一つだけだったり、サークルって一番しか認められないですから。そのため、イベサーや「盛り」を経験した人にはすごいガッツがあって、信念を貫き、より上を目指していく方が多いのではないのかなと思います。

久保 なるほど。「盛り」の美意識、まだまだ掘り下げる必要がありそう。本日はどうもありがとうございました。


1 2

page top